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学級経営日記

Monday, 15 July,2002
調理実習
むし暑い。
こんな日に調理実習なんて…
 
家庭科の先生も大変だわ。
この実習の結果も考えにいれて成績を出す…って言ってたけど。
成績伝票の提出期限は今日の3時なのに。
 
授業は午前中だけになっていて、実習は3・4時間目。
でも、どうせあの子たち、片づけに手間取るだろうから、完全に終るのは1時過ぎちゃうかもしれない。
 
サンドイッチにコーンスープ…かぁ。
 
4時間目の授業に行こうと廊下に出たら、バターの香りが漂っていた。
やってるやってる…大丈夫…かしら?
 
そして。
授業から戻ると…私の机の上には、アルミのお盆が鎮座していた。
 
冷たくなったコーンスープに、なんともいえない形に積み上げられたサンドイッチの山。
 
先に食べた方がいいんじゃないか、アルヌール先生?連中、まだ調理室でがちゃがちゃやってたから。
 
ハインリヒ先生がうさんくさそうにサンドイッチを眺めながら言った。
 
そうしよう。
少しでも早く食べた方がいいもの。たぶん。
 
スープは…少しだけ塩が足りない感じ。
そうなのよね…料理に慣れてないと、こうなっちゃうのよ。
おとなしくて真面目で慎重なヘレンとイシュキックを思い浮かべ、私はくすっと笑った。
 
笑ってる…場合じゃない。
問題は…こっち。
 
大きさが微妙にまちまちなサンドイッチが、座布団みたいに重ねて積み上げてある。
わけのわからない盛りつけ方だわ〜!
 
大きく空いたお皿の半分にはパセリとミニトマトと…マヨネーズの海。
あら?これ…もしかして。
…やっぱりっ!
 
顔、描いたんだわ〜!
薄く広げて顔を形どったマヨネーズの上に緑の髪と赤い大きな口…このハナクソみたいにまるめた茶色のパンが目なわけねっ?!
 
もう…いや〜〜っ!
 
思い切り脱力しながら、サンドイッチをつまみ上げ、端っこを少し囓った。
…え?
 
思わず囓ったサンドイッチを広げて中身を確認する。
 
おいしい…かも。
 
中身は。
ツナサラダみたいだけど…
ていねいに刻んだタマネギとキュウリがほどよく味付けしてあって…
 
ほんとにおいしい。
 
その下のはいわゆるBLTで。
もう一つは卵。これもおいしい。
 
やだ、おいしいじゃない〜!
 
お腹もすいていたので、一気に食べてしまった。
…あ。いけない。
このマヨネーズの顔…どうしよう。
 
サンドイッチにだましだましつけて食べてしまおうと思っていたのに…忘れてたわ。
 
とにかく…できるだけ食べる。
ハナクソみたいな目も丸薬を飲み込むようにして片づけて…
 
それでも、マヨネーズがお皿に残っている。仕方ないわ…
 
いらなくなったわら半紙でマヨネーズをふきとり、お皿をざっと洗う。
ついでにスープのお皿も。
 
片づけも生徒にやらせてください…って言われてるけど…でも、家庭科の先生の手間を考えると。
 
昼時だったので、職員室の布巾は繰り返し使われ、既に湿っていた。
しかたなく、またわら半紙を持ち出して、洗った皿の水気を取る。
 
お皿片づけにきました〜!
 
職員室にジョーが駆け込んできた。
 
あ…!先生、おいしかった?
 
ええ…とっても。
 
ジョーはよかったぁ、とにこにこして、綺麗になっているお皿に気づき、目を丸くした。
 
急いで片づけなさい。それで、全員教室に戻ったらホームルームにするから、呼びに来てね。
 
うん。先生、感想いっぱい書いてよ。
 
ええ。厳しく書くわね。
 
ええ〜っ?おいしいって言ったのに。
 
…本当においしかった。
「感想」の紙を前に、私はペンを構え、天井を見上げた。
 
そう…だった。
あの子たち…料理、初めてじゃない…むしろ慣れてるんだわ。
アポロンも、ジェットも。
ジョーは…お弁当を作るようになってまだ間もないけど。
 
ああ、そうだ。
ジョーのお弁当が日増しに進歩するからちょっと驚いていたけど…
ジェットとアポロンのおかげだったのね。
あの二人、きっと先輩ぶって、ジョーにいろいろ教えてあげて…
 
なんとなく、胸がいっぱいになった。
何を書いたらいいのか、わからなくなって、ペンを置いた。
 
おいしかったわ。本当に。
 
でも、これだけじゃ…ジョーの生活記録みたいよねぇ…。
Thursday, 18 July,2002
大掃除
明日はいよいよ終業式。
今日は授業なしで、大掃除。
 
…といっても。
クラス全員を掃除に振り分けるのは結構大変。
どの子も同じくらい仕事ができるように、何をすればいいのかわかりやすいように…
 
教室の床磨き、黒板掃除、掃除用具入れの掃除、靴箱掃除、窓ふき、ロッカーの掃除…
 
当番表を読み上げ、黒板に貼って、さあ、始め!と号令をかける。
 
どうせやるなら少しでも面白い方がいいから、学級費で特別なアイテムを揃えておいた。
手荒れしないけどよく落ちる洗剤とか…
面白い形の窓用ワイパーとか。
 
サボっている子をつっつきながら、一番大変な床磨きを手伝う。
 
もう床はせっけんの泡だらけになっていた。
ジェットが嬉しそうにスケートの真似をしているので、とりあえず頭をはたいて…
 
すごい〜、真っ白になった〜!
 
シンシアが弾んだ声で言う。
いつの間にかジェットもつり込まれて床をこすっている。
この子たちの根気が続くのはせいぜい10分なんだけど…
 
適当なところで切り上げて、雑巾隊に泡をふき取らせて…机を動かして、今度は反対側の床。
 
もうジェットたちは飽きてしまっているので、別の生徒たちに磨かせる。
前半の掃除を興味深そうに見ていた彼らはいそいそと洗剤をまき始めた。
 
…こっちは大丈夫ね…じゃ、廊下…
 
廊下に出た瞬間、私は凍り付いた。
ジョー…?!
 
ウチの教室は3階。
ジョーは、窓の向こう側にいた。
窓枠に、蜘蛛みたいにはりついて、片手に雑巾を持って。
 
大声が出そうになるのを、私は懸命に抑えた。
変に驚かせて、足を滑らせたりしたら…
 
ゆっくり窓の向こう側を拭き終えて、廊下に飛び降りたジョーに駆け寄り、思い切り両肩を掴んで揺さぶった。
 
何してるの、あなたはっ?!
 
ジョーはびっくりして私を見ている。
…ああ、もうっ!
 
廊下の外側は、危ないから拭かないように、って言ったでしょう?!聞いてなかったの?!
 
ジョーはまだ目を丸くしたままだった。
やがて…彼は、のんびり後ろを振り返った。
 
もう…拭いちゃった。
 
…う。
たしかに…廊下の窓は全部つやつやになっている。
 
落ちたりしないよ、先生。
 
あ…当たり前でしょう…?落ちるつもりで落ちる人なんていないわ!
 
ジョーはつまらなそうに呟いた。
 
きれいになったのになあ…
 
そ、それはそうだけど。
背中で頓狂な歓声と口笛が聞こえた。
ジェットだ。
 
すっげぇ…!お前がやったのか、ジョー?
 
うん。
 
ばっかだなぁ〜!落ちたら死ぬぞ!
 
落ちないよ。
 
どうやって拭いたんだ?
 
あそこんとこにつかまって…それで、手を伸ばして…
 
うげ〜っ!すげー馬鹿、お前っ!
 
騒ぐジェットに、ジョーは笑った。
…それはもう、嬉しそうに、満足そうに。
 
でも…ほめるわけにも、感心するわけにもいかないのよね、担任は。
あとで職員室に呼ばなくちゃ。
Friday, 19 July,2002
終業式
蒸し暑い体育館での終業式に耐え、通知票を渡されて悲鳴を上げて…
でも、明日から夏休み。
私は明々後日、合宿補習に出発なのだけど…
 
登校日に家族旅行などがかかっている生徒達は、その連絡票を持ってくる。
休み中に引っ越す予定の生徒が住所を持ってきたり…
ばたばたしている中で書類を受け取るときは注意しないと。
 
最後に、私は小さい紙を配った。
うちの電話番号と、合宿補習の日程と宿舎の電話番号と、私のメールアドレスが印刷してある。
 
全部の連絡がすんで。
いつも以上に元気いっぱいのジェットの号令がかかり、生徒たちははしゃぎながら教室を出て行った。
夏休みが始まる。
 
先生…これ。
 
ジョーが教卓に近づき、メモの切れっ端を差し出した。
 
何…?住所?
 
僕、休みの間、ここにいるんだ。叔父さんが先生に渡しておけって。
 
メモに書かれていたのは、別荘地として有名な町の名前。後見人の名はアイザック・ギルモア…
 
親戚のおうちなの…?
 
しらない。
 
…え?
 
ジョーはそれきり口を噤んだ。
 
あなた、一人…っていうわけじゃないのよね…?
 
うん。
 
…そう。
 
ジョーはふと私を見上げた。
 
涼しくて、いいところだよ。花も咲いてて。
 
そう…楽しみね。
 
うん。さよなら、先生。登校日も、帰ってこないから…9月まで。
 
そう…なの。
 
ジョーはにこっと笑うと、教室から駆け出して行った。
…登校日に休むなら、連絡票を…といっても、あの叔父さんじゃ…無理ねえ。
 
ジョーの叔父さんという人に、とうとう一度も会うことなく、一学期は終った。
電話が通じたこともない。
仕事が忙しい…って…そんなに忙しいのかしら。
…忙しい…んでしょうね。
 
一人じゃない…って言っても。
ジョー、向こうにお友達がいるのかしら…それとも、お手伝いさん?
まさか、このアイザック・ギルモア…という人と二人っきりだなんてことは…
 
…アイザック・ギルモア…?
 
どこかで聞いたことのあるような名前なんだけど…思い出せないわ。
Monday, 22 July,2002
合宿補習
学校に8時に集合。
遅刻者もなく、8時きっかりにバスは出発した。
さすが、合宿補習。気合い入ってるわ、この子達も。
 
この合宿は開校以来の伝統があるとかで。
いろんな伝説も抱えている。
その多くは、参加者がどれだけ非常識に頑張って勉強し続けたか、ということを表わすモノで。
 
とにかく、勉強するしかない。
異様な緊張感を背負って、バスはひた走った。
 
宿舎は、高原の大きなロッジで…一見古そうだけど、中は清潔で使いやすい。
お昼前に到着し、すぐ食事。
その1時間後、早々と授業が始まる。
理系のクラスはエッカーマン先生の数学。
 
物理は明日から。
難易度の高い入試問題なんて久しぶりだから、少し勘が狂うかもしれないと、不安なのだけど。
この合宿でダレた授業をしようものなら、もう大変なことに…
 
日が傾いてきたころ。
エッカーマン先生が、散歩に行きませんか、と誘ってくれたけど、お断りする。
 
ようやく明日と明後日の授業案を組み上げたら、夕食の放送が入った。
 
とりあえず一安心。
修学旅行と違って、見回りはないし、ご飯やお風呂の世話を焼くこともないから、この後はとっても楽で…
 
散歩、行ってくればよかったかな…?
Thursday, 25 July,2002
せきれい
合宿のペースにもすっかり慣れてきた。
生徒達が本当によく勉強するから、張り合いもあって、毎日充実している。
 
昼休みは、少し長めになっている。
今日は、エッカーマン先生に誘われて林の散歩に出た。
 
何の変哲もない道だと思っていたのだけど…
歩いてみると、いろいろな花が咲いていたり、珍しい虫を見つけたりして、楽しい。
 
それに空気はおいしいし、空はきれいだし…
…あ!
 
急に立ち止まった私を、エッカーマン先生は怪訝そうに振り返った。
 
どうしました?
 
あ…あの…いいえ、いいんです…ごめんなさい。
 
エッカーマン先生は首を傾げた。
 
どうか、したんですか?遠慮しなくていいですよ?
 
え、ええ…あの…笑わないでくださいね。日焼け止めしてくるの、忘れてしまって…
 
エッカーマン先生はちょっと目を丸くして、私をまじまじ眺め…笑い出した。
 
やだ、先生…!笑わないでください…!
 
す、すみません…でも、そうかぁ…大変ですね、女性の方は…!
 
女性も男性も同じです!
 
憤慨しかけたとき。
何かがふわっと頭にかけられた。
エッカーマン先生が羽織っていた薄いジャケットだった。
 
そうですね、男性も女性も同じでした。それはね、UV加工してある布地だそうですよ。
 
慌ててジャケットを返そうとする私を笑顔で押しとどめて、エッカーマン先生はそのまま歩き続けた。
 
あ…!ほら!
 
不意にエッカーマン先生は足を止めて、前を指さした。
長い黄色い尾をした小鳥が道の真ん中にいる。
 
珍しい…わ。あんなところに。
 
せきれい、ですね。
 
…せきれい?
 
アルヌール先生は、理科でしょう?ご存じないんですか?
 
わ、私は…だから専門は…!
 
し…っ!見てください。
 
エッカーマン先生はゆっくり歩き始めた。
小鳥は、素早く小さい足を動かし、前へ走った。
エッカーマン先生が足を速めると、小鳥も足を速め…とうとう飛び立った。
 
あ…!
 
思わず声を上げた私を振り返り、エッカーマン先生は笑った。
 
大丈夫…ほら。
 
先生が指さした道の先には、飛んでいったと思った小鳥がちゃんと舞い降りていた。
 
どうして…逃げないのかしら?まるで、案内してるみたい。
 
そうですね。そういう鳥なんですよ…もう少し行きましょう。
 
私たちは、小鳥に案内されて、どんどん進んでいった。
なんだか楽しくて…時間を忘れてしまっていた。
 
あ…!こんな時間だ!
 
エッカーマン先生が不意に腕時計を見て、声を上げた。
本当…大変!
 
私たちは大急ぎで今来た道を駆け戻っていった。
だんだん息が上がってきて…小さい石にけつまづき、転びそうになった。
 
あぶない…!
 
エッカーマン先生が手を引っ張って、倒れそうになる私を起こしてくれた。
 
あ…ありがとう…ございます。
 
大丈夫ですか?
 
うなずくと、エッカーマン先生は、私の手を取って、また走り始めた。
かぶせてもらった先生の上着をもう片方の手で押さえる。
上着は、はたはた靡いて、ときどき私の頬をくすぐった。
 
建物が見えてきた。
午後の始業まであと3分…!間に合うかしら?
Saturday, 27 July,2002
Eメール
一日に一度、メールをチェックする。
ほとんどが、兄さんからのメール。
 
兄さんは、毎日細々したことを書いてくれる。
一つ一つはどうでもいいことかもしれないけど…でも、それを読んだり、返事を書いたりするのはやっぱり楽しい。
 
他にも、友達から…生徒からもぽつぽつ入る。
ホームページを作りました!なんてメールもある。
 
勉強はしてるのかなぁ…?
 
今日、兄さんからのメールには意外なことが書いてあった。
 
急な出張で、明後日から8月の中頃まで留守にする…と。
 
準備はちゃんとできたのかしら?
こんな暑いときに出張なんて…
 
思いつくままに持ち物リストと、それがしまってある場所を書き付けて、メールを送った。
 
それじゃ…帰っても、兄さんはいないのね。
 
ちょっと寂しい。
コドモの頃から、一人になることは、そんなに珍しくなかったけど…
でも、せっかくの夏休みなのに。
 
もともと、夏休みの予定を乱したのは、この合宿で、私のせいなんだから、文句を言うわけにはいかないけど。
Tuesday, 30 July,2002
招待
明日で合宿は終わり。
私の講義は、今日が最後だった。
明日の昼前にバスは出発する。
 
長かったような短かったような…
夕食がすんで、生徒たちが部屋にこもったころ、こっそり庭に出てみた。
 
満天の星。
この星空とも、今日でお別れね。
 
アルヌール先生。
 
エッカーマン先生が歩いてきた。
 
…終りましたね、お疲れさま。
 
ええ…先生は明日の朝まで、ですよね。
 
そうですね…でも、これが終ればしばらく夏休みですから!
 
楽しそうな横顔に、思わず笑ってしまった。
エッカーマン先生は軽くにらむようにしながら、さらっと言った。
 
先生、ウチに来ませんか?
 
…え?
 
僕ね、明日…うちの別荘に直接向かうんですよ…この近くにあるんです。
 
…別荘…ですか?
 
あっけにとられている私に、エッカーマン先生は笑った。
 
部屋は十分ありますから、先生が一人増えても大丈夫だし…明日から、お手伝いさんがきてくれるから、先生をわずらわせるような真似もしませんよ…2,3日どうです?
 
思い出した。
エッカーマン先生の別荘に遊びに行った…という話は耳にしたことがある。
 
今回も、他に2人の先生たちがそこに立ち寄るのだという。
 
せっかくこんないいところに来たんですから…生徒は抜きにして、少し羽を伸ばしませんか?
 
…どうしよう。楽しそうだけど…
 
ふと、兄さんのいない家を思い浮かべた。
自分が、思っていたより寂しがっていたことに、私は気づいた。
 
もし…ご迷惑でなかったら…
 
エッカーマン先生はにっこりした。
 
迷惑なんかじゃありません。とても嬉しいです…夢みたいだ!
 
…少し、大げさかも。
Wednesday, 31 July,2002
アイザック・ギルモア
お昼過ぎに、エッカーマン先生の別荘に着いた。
立派だわ〜!
 
結局、私も入れて3人招かれたわけなんだけど…もう2、3人いても大丈夫そうな大きい家だった。
 
私が案内された部屋には綺麗なレースのカーテンがかかっていて…ベッドも、うちで使っているのより上等な感じで。
専用のバスルームまでついている。
 
気に入りましたか?
 
エッカーマン先生を振り返り、私は何度もお礼を言った。
でも、ちょっと不思議。
この部屋…どう見ても女性専用の部屋…って雰囲気で。
 
ここは…僕の母親が昔使っていた部屋なんですよ。だから、家具が少し古くて…すみません。
 
え…?
 
私は慌てた。
 
そんな、大事なお部屋…使わせていただくわけには…!
 
エッカーマン先生は笑った。
 
そんなことありません。この家に女性が泊るときは、いつもこの部屋を使ってもらうことになってるんですから…そうだ。
 
エッカーマン先生は、部屋の隅にある小さい机を指さした。
 
あそこに、コンピューターをつなげますよ。お兄さんと、メールのやりとりもできます。
 
…ホントだわ。
ケーブルが何本か引いてある。
 
この部屋にはなんとなく似合わないけど…でも、エッカーマン先生らしいわ。
なんだかおかしくて、私はくすくす笑った。
 
夕食はお手伝いさんがしてくれるから、と台所に入れてもらえず…窓の外が暗くなっていくのを見ながら、私はノートPCを荷物から取り出した。
 
無事に着いたって…兄さんにメールしよう。
 
ケーブルをつなぎ、スイッチを入れ…メーラーを立ち上げて…
 
一応、メールの受信をしてみた。
何も来ていないだろうと思っていたら、一通だけあった。差し出し人は…
 
アイザック・ギルモア…?
 
聞き覚えのない名前だった。
気味が悪かったけれど…容量がとても小さいし…危険はないだろうと思って、開いてみた。
ごく短い、テキストメールだった。
 
ジョーが、熱を出した。
私は、明日から会議に出るので、家を空けなければならない。
手伝いを頼みたい。
 
何、これ…?
しばらく考えて、あ!と私は声を上げた。
アイザック・ギルモアって…あの、ジョーの後見人…?!
 
メールは、ジョーの自宅と、叔父さんの携帯らしいアドレスにCCしている。
…わけがわからない。
 
わからないけど…
これだと、このギルモアって人…明日、病気のジョーを置いて会議に行ってしまう…ってこと?
それで応援…っていわれたって…
第一、メールを開けなかったら、どうにもならないじゃない、せめて電話を…!
 
メールの最後に住所と電話番号が書いてあった。
ここからそれほど離れていない。
 
私は携帯を取り出し、電話をかけてみた。
…誰も出ない。
 
ファイルから、ジョーの持ってきた手紙を引っ張り出してみると…確かに住所も電話番号も、メールアドレスも一致している。
 
 
数時間後。
私は、その別荘の玄関にいた。
 
車で連れてきてくれたエッカーマン先生と、何度かベルを鳴らしてみたけど…応答がない。
 
あれ…?開いてるぞ…?
 
エッカーマン先生が、目を丸くした。
しかたないわ…
 
私たちは、静かに家の中に入った。灯りをつけてみる。
 
誰か…いませんか?
 
ジョー…?いるの…?
 
家の中は綺麗に片づいていて…
食堂のテーブルの上には、真っ白な布巾がかかった、食事らしいものが置いてあった。
 
食堂の向かいの部屋は、書斎のような感じ。
なんだか雑然としている。
ギルモア、という人の仕事部屋かしら…?
 
アイザック・ギルモア…?!
 
不意に、エッカーマン先生が大きな声を出したので、私は飛び上がった。
 
す、すみません…脅かして。今、思い出したんです…アイザック・ギルモア博士といえば、世界でも最先端の研究をしている科学者じゃないですか…!
 
…え?
 
そう…言われてみれば…そうだわ。
本当…!
だから、どこかで聞いたことがある名前だと…
 
呆然としていた私の耳に、微かな物音が聞こえた。
咳…?
 
足早に奥の部屋に向かい、そっと扉をあけると…ベッドで、誰かが烈しく咳込んでいた。
 
ジョー…?!
 
思わず駆け寄った。
毛布の下から、見慣れた茶色の髪が覗いている。
ジョーは、苦しそうに喉を鳴らし、目を堅く閉じていた。
 
…熱い。
 
ひどい熱…!どういうこと?ギルモアって人はどこにいるのよ?!
 
心配と怒りで、私はすっかり取り乱していた。
外で、エッカーマン先生と誰かが言い争いをしているのにも気づかなかった。
やがて。
 
…は…かせ…?
 
かすれた声。
私はそっとジョーの手を握りしめた。
 
…ぼ……だ…いじょう…ぶ…か…ら
 
大丈夫だ…って言ってるの…?
全然大丈夫じゃないじゃない…!
 
涙が出そうだった。
信じられない。
何が後見人よ…こんなになっている子をおいて行ってしまうなんて…!
 
アルヌール先生かね?
 
ぎくっと振り返った。
ドアのところに、白髪の老人が立っている。
 
大きい鼻…
…って、そんなことどうでもいいわ!
 
それじゃ…あなたが、アイザック・ギルモア博士…?
どういうことですか?!この子…
 
どういう…ことか、わかっておるから来てくれたんじゃないのかね?
 
…え?
 
その子には薬を飲ませた…たぶん大丈夫じゃろう。
 
薬…って!
 
悪いが、お連れさんには帰ってもらったよ…正直、この家にはあまり人を入れたくないんでな…あぁ。食事はテーブルの上にある…その子の分じゃが、今は喉をとおらんじゃろうから、あんたが食べるといい。
 
…あの…!
 
それじゃ…わしは研究室に入らせてもらおう。明日の朝一番に発つが、気遣い無用じゃ。
 
あっけにとられている私に頓着する様子もなく、ギルモア博士はドアを閉めて行ってしまった。
 
…何、あれ?!
 
憤慨して立ち上がろうとしたとき。
微かな声がした。
 
…お…かあ…さん…?
 
ハッとして、私は手に力を込めた。
ジョーは少しだけ微笑んで…目を閉じてしまった。
 
ごめんね…私は…あなたのお母さんじゃないのに…でも。
こんなあなたを放っておけないわ。
何もかも、この熱が下がってからよ…!
Thursday, 1 August,2002
山田葉子さん
薬は、効いたみたいだった。
 
ジョーの咳は止まって、息づかいもだんだん穏やかになって…
いつのまにか、私もうとうとしていた。
 
カーテンから差し込む光で目が覚めた。
…何時かしら?と時計を見ようとしたとき。
私は飛び上がった。
 
いきなり、ものすごい勢いでドアが開いた。
 
坊ちゃま〜〜っ?????
 
頓狂な声で叫びながら駆け込んできた女の子は私を見てびっくりして…足をもつれさせ、転んでしまった。
 
だ、大丈夫……?!
 
私も負けないくらいびっくりしていたのだけど…とにかく彼女を助け起こした。
 
だ、大丈夫…です、すみません…あ、あの…?
 
驚かせてごめんなさい…私、この子の中学校の担任です…アルヌールといいます。
 
先…生…ですか…?!
 
黒い大きな目が一瞬怯えた色を浮かべたように見えたのは…気のせいだったのかもしれない。
彼女は、みるみるうちに頬を真っ赤に染めた。
 
す、すみません…私、山田といいます…あの…このおうちの家事をやらせていただいてます。
 
あ…お手伝いさん…?
 
はい…昨夜、坊ちゃまがお熱を出されて、私、泊ってお手伝いする…って言ったんですけど、ギルモア先生に駄目だって言われて…でも、心配で…
 
私は大きく深呼吸して…時計を見た。
6時10分すぎ。
 
この…近くの方なんですか?
 
山田さんは首を振った。
峠を1つ超えた集落からクルマで来たという。
…ということは、高校は卒業してる…のよね。
そうは見えないけど…
 
ぼんやり考えていると、山田さんが小さく声を上げ、ベッドに駆け寄った。
 
坊ちゃま…!
 
葉子…さん?今…何時?
 
6時過ぎです、坊ちゃま。朝の。
 
そんなに…?どうして…
 
私のことならご心配いりません、坊ちゃま…それより、朝ご飯、何か召し上がりたいものはありますか?
 
坊ちゃまはやめてよ。
 
パンがよろしいですか?それともおかゆを作りましょうか?
 
なんでもいいよ…ちゃんと食べるから。
 
まあ!よかった…それじゃ坊ちゃま、できたらお届けします…先生、坊ちゃまをよろしくお願いします。
 
先生…?!
 
ジョーは勢いよく起きあがった。
 
坊ちゃま…!
 
ジョー…!
 
私たちは同時に叫んだ…けど、ジョーは何も聞こえていないように私をまじまじと見つめていた。
 
先生…なんで…
 
ドクター・ギルモアから連絡があったのよ…びっくりしちゃった。
 
……。
 
あなたも…びっくりしてると思うけど。
 
ジョーは黙ってうなずいた。
 
とにかく寝なさい…朝ご飯、食べられるなら、よかったわ…安心した。
 
まだ目を丸くしているジョーを、山田さんがむりやり布団に押し込むと、ジョーは不意に毛布を思い切り両手で引き上げながら、隠れるようにベットにもぐりこんでしまった。
 
なんだか…わけわからないよー!
 
毛布の中から情けない声。
私たちは思わず顔を見合わせ…どちらからともなく吹き出していた。
Saturday, 3 August,2002
坊ちゃま
やっと…ホッとできたかもしれない。
 
ドクター・ギルモアは一昨日、いつの間にか家を出てしまったらしい。
山田さんも、さすがに雇い主の悪口は言わない…としても、複雑な表情で、
 
先生は風変わりな方ですから。
 
と言った。
 
山田さんに手伝ってもらって、なんだかかびくさい感じの客用寝室を掃除して…私はそこに泊めてもらうことにした。
 
エッカーマン先生に連絡すると…何ともいえない沈黙の後、わかりました、とだけ返事があった。
 
招待されたのに…こんなことになるなんて。
失礼きわまりないわよね…
でも…
 
ジョーの回復は呆れるほど早かった。
一昨日から、もう寝ているのを嫌がって…
昨日は朝早くから家を飛び出して、昼にゴハンを食べに戻ってきて、またあっという間に飛び出して…夕方遅くに帰ってきた。
 
今日も。
私が起きたら、ジョーはもういなかった。
 
山田さんに話して、朝食は私が作ることに落着いた。
彼女の勤務時間はそもそも10時から4時なんだというし…
 
とにかく、ドクター・ギルモアが戻るのは明後日らしいから…それまではここで暮らすことに決めた。
 
大丈夫そう…とは言っても、ジョーは病み上がりなわけだし。やっぱり放っておけないわ。
 
それに…山田さんって。
 
もちろん、ちゃんとした家政婦教育を受けてきている人なので、家事の技術は私などの及ぶところではない…のだけど。
なんというか。
 
…そそっかしい…?
 
としか言いようのないところがあって。
それはそれで放っておけない気がするのだった。
 
今も。
昼ご飯の用意を手伝っていると…危なっかしい感じが。
それでも、彼女は楽しそうに働いている。
感じのいいヒトだと思う。
 
坊ちゃま…そろそろお帰りになりますね…間に合うかなぁ?
 
そう…ね…朝ご飯も食べないで出て行ったから…早めに帰ってくるのかも。お腹がすいて。
 
山田さんはくすくす笑った。
 
坊ちゃまに朝ご飯を食べさせるのはタイヘンなんですよ、先生…!
 
そうみたいねぇ。
 
置いていっても、気づかずに出ていってしまわれるし…気づけば、必ず召し上がってくださるんですけど。
坊ちゃまは…お優しいから。
 
包丁の音が止まった…ので。
不思議に思って振り返ると、山田さんはぼんやり遠くを見る目をしていた。
 
どうして、坊ちゃまはあんなにお優しいんでしょう…お母さまもお父さまもいらっしゃらなくて、いつもおさびしいはずなのに。
 
山田さんの声は、本当に素直で飾り気がなくて。
その言葉はまっすぐ胸にしみこんでくるようで。
私は、少し慌てた。
 
そう…よね。
いつも…さびしい…んだわ…あの子。
 
ふと胸がつまったとき。
山田さんの言葉に、私は目を見開いた。
 
早く、学校が始まればいいです…坊ちゃま、お友達や先生といらっしゃるのが本当に嬉しいんです。お話してくださるのは、いつも学校のことばかりで…それはお幸せそうに。
 
そう…なのかしら…?
 
この家に着いたとき、熱にうなされながら、ジョーがつぶやいた言葉。
お母さんを呼ぶ…あの声。
 
思いに沈みかけた私を、山田さんの明るい声が引き戻した。
 
大変!…帰っていらっしゃった…!
 
窓から、何を急いでいるのか、全力疾走で帰ってくるジョーが見えた。
…ほんと、どうしてあんなに走るのかしら。
 
こみあげそうになる笑いを押し殺して、私はごしごしテーブルを拭いた。
 
どうにもならないことは考えてもしかたないわ。
私たちは、自分にできることをするしかないんだから。
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Last updated: 2007/10/21