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3    プロフィール(超銀)
 
 
 島村ジョー。日本人。二三歳。独身。五月一六日生まれ。
 
 フランソワーズは、何度もそのページを読み返した。ジョーが五月一六日生まれ…だなんて、今まで聞いたことがなかった。
 そもそも、彼から誕生日を聞き出す根気と勇気のある人間がいた、ということが、彼女にとっては軽い驚きだったのだが。これもファンサービス、仕事のひとつ、と、ジョーなりに割り切ってのことなのかもしれない。
 もうすぐ、彼と会う約束になっている。こんなことなら、別の日を選べばよかったのかもしれない…けれど。
 フランソワーズはため息をついて、カレンダーを見上げた。約束の日は、五月一五日。このプロフィールによれば、誕生日の前日、ということになる。
 たぶん彼は何も気にかけていないのだろう、という気もする。昨日の電話でも、そのことは全く話題に出なかったし…彼の口調は極めて明るく、屈託がなかった。
 しかし、彼女が今手にしている冊子は彼のファンクラブが編集しているものだった。当然、ファンたちはその日…五月十六日を心待ちにしているはずだし、それに伴うイベントも計画されているのではないかと思われる。ついでに言うと、特別な取材もあるかもしれないわけで。
 そんなときに、いわば彼の影の世界に属する人間である自分が、近くにいていいものだろうか、とフランソワーズは危ぶんだ。かと言って、彼にそう話すと、それはそれで何かややこしいことになるような予感もするのだった。
 とにかく、予定通り会いに行くしかない。フランソワーズは決心した。彼のいつもの過密スケジュールを考えると、日程の変更は無理に違いないし、だからといって、約束そのものを反故にするのは、彼女自身が悲しかった。
 なにより、仮に約束を撤回するとしても、彼に説明できるその理由はコレ以外に何も思いつかないのだった。そして、ソレを説明するのがはばかられる…のであれば、もう手の打ちようはなかった。
 
 ジョーは、少なくとも今は、彼女の誕生日を知っている。もちろん、フランソワーズにファンクラブができたからではない。今年初めて、仲間たちが彼女のために、ささやかながらも温かい誕生祝いをしてくれたのだった。
 フランソワーズは…フランソワーズだけは、拉致され、改造される前の生活に一切の翳りというものがない。言ってみれば、素直に在りし日を懐かしむことができる。だから、彼女はしばしば、仲間たちにとって、過去との架け橋のような存在であることを求められていた。彼女を通じて、仲間たちは比較的心安らかに過去を懐かしむことができるのだった。
 自分の誕生日には、そういう特殊な意味合いが含まれていることを、フランソワーズはよく自覚していた。その上で、彼女は仲間たちから寄せられた温かい贈り物を感謝しつつ受け取ったのだ。
 もっとも、その日、夜も更けた頃、ひそかにジョーから贈られたブレスレットには、もっと別の意味も濃厚に込められていたのかもしれない。少なくとも、自分一人でそう解釈することぐらいなら許されるだろう、とフランソワーズは思っている。
 
  2
 
 ジョーに会うとなると、平和がそろそろ身に付いてきた今でさえ、何らかの物思いがつきまとうことに、フランソワーズはひっそり苦笑した。しかし、どんな物思いも、彼の顔を見た瞬間、きれいに消えてしまう。それも、いつものとおりだった。
 会いたかったわ、と無邪気に飛びつくフランソワーズを、ジョーはやさしく抱き留め、そのまましばらく、彼女をたしかめるように抱き続けた。そんなことはこの国の恋人たちにはごく当然の仕草だが、彼がそうするようになったのは最近…あの宇宙での戦いからだった。
「元気そうだね、フランソワーズ……顔を見せて」
「あなたも、とても元気そうだわ」
 さりげなく答えながら、フランソワーズは胸を熱くしていた。しばらく会わないうちに、彼がまたいっそう頼もしく魅力的な男性になっているような気がしたのだった。
 つけていてくれたんだ、似合うよ、と嬉しそうに彼女の手首に触れ、光るブレスレットに目をやってから、ジョーは軽く唇を重ねた。そんなことも、以前の彼では想像すらできない行為だった。
それは、あの戦いの中で、二人がお互いの想いを確かめた結果…というよりはむしろ、レーサーとして国際的に活躍するうち、彼の言動が自然に洗練されてきた、ということなのだろう。フランソワーズはそう思った。
 たしかに、あの戦いの後、二人は仲間から恋人同士、と公認されるようになった。彼も自分をそう扱ってくれている、と思う。
 が、二人きりになると、彼はむしろ以前よりずっと慎重で、彼女に心を閉ざしているように見えることさえある。一抹の寂しさを感じながらも、フランソワーズはそんな彼をいつも黙って受け入れ、見守っていた。
 彼が本当に自分を必要とするときが来るなら、それを待てばいいし、そんなときは来ないというのなら、このままでもかまわない。胸の痛みは、抜けない棘のようで、だからこそ、もうそれが体の一部であるかのように彼女に馴染んでもいた。
 
 居間にゆったりと座り、コーヒーの香りを楽しむようにカップを手にとるジョーを、フランソワーズはぼんやり見ていた。
 どこまでも…そこがたとえ宇宙の果てであろうとも、この人についていく、それができるのは自分しかいないのだ、と熱い思いで見つめたあのときの009と、今目の前にこうしているジョーとが微妙にずれていくような気持ちになる。
 それは、当然のことなのかもしれない。今、彼を心から愛し、支えようとしている人は数え切れないほどいるだろうと思う。それはもちろん、フランソワーズにとっても望ましく幸福なことだった。
「フランソワーズ、また、考え事かい?」
「…え?」
「何を考えていたんだ?」
 はっと顔を上げ、すぐ気まずそうにうつむいてしまったフランソワーズに、ジョーは苦笑した。
「君の気持ちが、今わかったところだよ…よく同じことを聞かれたっけね」
「ご、ごめんなさい…私、ぼんやりして」
「こうして…僕といるのは、つまらないかい?」
 フランソワーズは驚いて顔を上げ、勢いよく頭を振った。ジョーはまた笑った。
 
 フランソワーズがジョーを自分の住む部屋に案内したのは、結局、それが一番目立たないやり方だと判断したからだった。彼女は平時にはめったに開くことのない目と耳をほとんど全開の状態にして、間違っても尾行されたりしないように気を配ったし、部屋に入ってからも、時折こっそり外の様子をうかがった。が、今のところ、記者などにかぎつけられた様子は全くなかった。
 他愛のない話を交わすうちに時間はどんどん過ぎていく。一向に腰を上げる様子も、時計を見る様子すらないジョーに、フランソワーズは困惑した。
「ジョー…晩ご飯はどうする予定なの?」
 ついにおそるおそる尋ねると、彼の目が一瞬曇った…ような気がした。気がした…だけだったのかもしれない。が、フランソワーズは思わずかぶせるように付け加えていた。
「もしよければ、私、ポトフを作ったのよ…一緒にいかが?」
「それは嬉しいな…本当にいいのかい?」
 ひどく懐かしそうなまなざしを向けられ、フランソワーズは頬を染めてうなずいた。
 
 
 外はすっかり暗くなっていた。夕食を終えても、ジョーは帰ろうとしない。フランソワーズはだんだん不安になってきた。
 どういうつもりなのだろう。明日はきっといろいろな取材に応じたり、イベントに出席したりしなければならないはずなのに。しかし、それがどこで行われるのかすら、フランソワーズには見当がつかなかった。
 食後にと、果物のコンポートをキッチンで用意しながら、フランソワーズは、ハッと顔を上げた。
 もしかしたら。
 
 ジョーにとって、自分の誕生日がどういう日であるのか、フランソワーズは正直なところ、わかっていなかった。が、少なくとも、無邪気に心を弾ませる日…ではなかっただろうことは彼の様子を見ていると何となく感じ取れた。
 とはいえ、自分の誕生日を疎ましく思う…という気持ちを、フランソワーズはどうしても実感として想像することができなかった。それはとりもなおさず、自分自身の存在を疎み、否定する気持ちのように思えたのだった。
 
 もしかしたら、ジョーは、逃げてきたのかもしれない、人々の祝福から。フランソワーズはそう思った。
 記者などの、明日に備えて彼を追っているはずの人間が見あたらないのも、彼の居場所に全く見当がつかないからなのかもしれない。
 それなら、わかるような気がする、彼がここに来た理由も。他に行き場所がなかったから…ではないか。
 しかし、彼は逃げるべきではないのだ。逃げる必要などないのだから。しっかり顔を上げて、自分を照らす光に気づいてほしい。彼を愛する人々の想いを受け止め、生きる喜びを感じてほしい。フランソワーズはぎゅっと両手を握りしめた。
 やっぱり、言おう、帰るように。彼のあるべき場所に。光の下に。
 戦場ではあれほど勇敢な009なのに、彼は自分自身のことになると、いつも極端に臆病で、投げやりですらあった。だから、放っておけない。
 でも、いつまでもこのままでいていいはずはない。自分が与えることができる僅かなぬくもりより、彼はもっと多くを与えられるべき人なのだから。
 長い間、彼を甘やかしているつもりで、実は甘えていたのは自分だったのかもしれないのだ。
 
 逃げるのはやめましょう、私たち。本当のことにいつかは向き合わなければいけないのだから。
 私たちは、仲間。その絆は恋人よりずっと強いかもしれないわ。でも……
 でも、恋人ではない。少なくとも、あなたは私を恋人として求めているわけではない。あなたの本当の幸せは、ここにはないのよ、ジョー。あなたは、ここを離れなければいけないんだわ。
 そして、私も。
 
 そう認めるのは予想していたより、はるかに苦しかった。わかっていたのに。何度彼に愛を打ち明けても、彼からは優しさしか返ってこなかったのだから。それが何より、彼の真実を彼女に告げていたはずなのに。
 トレイを持ち上げながら、フランソワーズはさっと顔を上げ、静かに深呼吸した。
 
 かちゃん、とフォークがデザート皿の上に落ちる。ジョーは信じられないものを見るような目でフランソワーズを見つめた。フランソワーズは繰り返した。
「もう、帰ってちょうだい」
「…フランソワーズ」
「ごめんなさい。あのね、あなたにそんな気がないのはわかっているわ…でも、もうこんな時間でしょう?近所の人に知られたら、私…困るわ」
 長い沈黙のあと、ジョーはごめん、とつぶやいた。涙があふれそうになるのを懸命にこらえ、フランソワーズは空になった皿をテーブルから取り上げ、キッチンに運んだ。
 彼がのろのろと椅子から立ち上がる気配がする。ぎゅっと唇をかみしめ、食器をシンクに置いた瞬間、フランソワーズは息が止まりそうになった。
 後ろから、彼に固く抱きしめられていた。
 
 離して、と叫ぼうとするのに声がでない。もがくフランソワーズの耳に唇を近づけ、ジョーはうめくように言った。
「何が欲しい?…って、聞かれるんだ。いろいろな人たちに。何度も、何度も。欲しいものなら何でもあげよう…ってね。…でも」
 ジョーは喉を詰まらせ、声を懸命に絞り出した。
「欲しいものなんか、手に入らない。どこにもない。そうだろう?」
「…ジョー」
「僕が、欲しいものは、手に入らない……!」
 フランソワーズは雷に撃たれたように硬直した。
 
 彼が、欲しいもの。それは。
 
「フランソワーズ…わかるだろう?君ならわかってくれるだろう?僕…僕は…!」
 全身から力が抜けていく。乱暴に抱き上げられるのを感じながら、フランソワーズはただ震えていた。
 
 彼を愛したひとはみんな彼を去った。
 彼の母親も……あのひとも。
彼の欲しいものは、彼の手からこぼれてゆく。
 そして、後に残るのがただ私だけだというのなら。
 
 ベッドに投げ出されても、フランソワーズは目を閉じたまま、抵抗する様子を全く見せなかった。ジョーは慌ただしく彼女の衣服をはぎ取りながら、愛している、と繰り返し彼女の耳に囁き続けた。
 
 嘘つき。でも、許してあげる。
 そうしなければ生きていけない私たちなら。
 
 やがて、そっと目を開き、フランソワーズは懸命に微笑もうとした。食い入るように見つめていたジョーのまなざしに、強い光が宿る。僅かに開きかけた柔らかい唇を強引に唇でふさぎながら、彼は少しずつ彼女に体を重ねていった。
 
 捜して。
 捜してちょうだい、ジョー。捜しても捜しても、あなたが欲しいものは私の中にないのよ。でも…そのことにあなたが気づくより、私の命が果てる日の方が、きっと早いでしょう。だから、捜して…そして、私の傍にいて。その日まで。
 
 生まれてくれてありがとう。私の傍にいてくれて、ありがとう。
 お誕生日、おめでとう。愛しているわ、ジョー。
 
 そんな風に言えればいいのに。でも、あなたにそう言えるひとはきっとどこかにいる。私でない誰か。だから、言わない。一番大事な言葉…それだけは、真実の中に残しましょう。
 愛しているわ。偽りの愛でも、これが私。あなたに、全部あげる。
 だから……捜して。捜し続けて、今は。
 
 
 フランソワーズはジョーの腕の中で眠っていた。その亜麻色の髪に顔を埋め、優しく彼女を抱きしめていたジョーは、居間の時計が鳴るのを聞いた。十一時三十分。あと三十分で日付が変わる。
 彼女は知っていたのだろうか。たぶん、知っていたはずだ…と、ジョーは思う。あのプロフィール。明日は、僕の誕生日…形だけの。
 
 ジョーはフランソワーズに誕生日を教えたことがない。ずっと以前、さりげなく聞かれたときも、はぐらかした。
 捨てられた赤ん坊だった彼の誕生日は、もちろん真実のものではない。それがどのように定められ、出生日として役所に届けられたのか、彼は知らないし、知ろうと思ったこともなかった。だから、教えられない。彼女には本当のことしか伝えたくない、とジョーは頑ななまでに思っていた。
 そして、その思いは、どういう形でかはわからないけれど、たぶん、フランソワーズにも伝わっているようだった。今日の彼女の言動は、ほんの僅かだが、ぎこちなかった…と彼は思う。きっと彼女は公開されたばかりの彼のプロフィールをどこかで見て、明日がその日だと知っているのだ。知っているけれど、思慮深い彼女は、彼を思いやり、それだけでなく、さまざまなことを考え合わせた上で、彼を祝福することをためらったのだろう。
 
 僕の望み。僕が、欲しいもの。
 それは、ひとつしかない。
 でも。
 
 あの宇宙での戦いは、フランソワーズが自分を愛してくれているということを、ジョーにはっきり教えてくれた。それは魂が震えるような喜びをもたらしてくれる事実だ。しかし、ジョーは、彼女のその愛に応える自信をどうしてももてなかった。
 自分を愛せない人間に、他人を愛せるはずはない。昔聞いた言葉が、いつも頭の隅に引っかかっていた。そしてジョーは、自分がそういう人間であることを、絶望的なまでによく理解している。
 あのボルテックスに突入し、同化して、ほんの一瞬、宇宙の全てを知った彼は、自分自身の心の闇も強く感じ取っていたのだった。
 
 僕は、自分を愛せない。自分が生まれて、生きていることに喜びを感じられない。そんな僕が、彼女を愛せるはずがない。
 
 ボルテックスから帰還したとき、ジョーは、フランソワーズが何より大切な、かけがえのない女性であることをはっきり自覚した。二度と離れたくないと思った。彼女の故国に共に渡ったのも、そうした気持ちからだった。
 しかし、同時に、ジョーの胸には常に暗い不安が巣くってもいた。もし、彼女の愛に応えられなかったら。他ならぬ自分の手で彼女を傷つけ、不幸にしてしまったら…いや、もし、ではない。自分は必ずそうしてしまうのではないか。
 逃げることは何の解決にもならないとわかっている。それでも、逃げるしかなかった。彼女のことはあきらめよう、あきらめなければならない、と、ジョーは次第に思うようになっていった。
 が、既に手遅れだったのかもしれない。彼は、どんな望みでも意志の力であきらめることができるはずだと思っていた。実際、子供の頃からそのようにして生きてきたのだから。しかしそのやり方が、彼女については、全く通用しなかった。
 あきらめようとすればするほど、想いは募り、結局、ジョーは仕方なく、その切ない疼きを宥めるためにだけ、フランソワーズとたびたび会うようにした。
 彼女の声を聞き、笑顔を眺め、優しい手にそっと触れ、唇を重ねると、苦しみは嘘のように溶けていくのだった。やがて訪れる、心そのものを引き裂くような別れの悲しみを代償として。
 
 こんなことを、いつまで続けられるだろう。もちろん、出口はある、ひとつだけ。もう一度二人が009と003に戻り、ありふれた恋人などよりも、ずっと強い絆で、容赦なく結び直されることだ。その機会は…あまり考えたくないことだが…確実にくるだろう。
 それを待てばいいだけなのかもしれない。だが、本当にそれしかないのだろうか。自分は結局、そういう形でしか彼女に触れることができない男なのだろうか。
 苦しみぬいたジョーはあるとき不意に気づいた。彼女と逢い、夜を重ねるうちに、少しずつ何かが見えてきたような気がする。
 
 出口は、ある。
 悪夢の戦いと同じように、それは僕の外から、僕を救うだろう。
 フランソワーズ、もし、君が……
 
 そうだ、真実は、愛の中にある。彼女を抱き、彼女のぬくもりを全身で感じながら、ジョーはそう確信した。全ては、彼女の中にある。僕に足りないもの、僕が求めているものは、全て、必ず。
 
 ジョーは、それまで応じなかった、私生活についての取材を受けた。ほどなく、彼にとっては所詮偽りでしかないプロフィールが作られ、公表された。それを醒めた気持ちで見つめながら、彼は心でつぶやいた。それでも、真実は一つだけあるのだ。もし、フランソワーズがこれを受け入れてくれたら。彼女が、この僕を、そしてその日を心から祝福してくれたら……。
 愛はどんな偽りも真実に変える。愛を受け、偽りは生命の光を放つ。それもまた、ジョーがあのボルテックスの中で知ったことだった。  
 
 
 闇の中でも、目をこらせば時計の針が見える。あと十分で、十二時になる。ジョーは眠るフランソワーズをそっと抱き直した。
 夜が明ければ、発たなければならない。どうしようもなく愚かしい、しかし逃れられない茶番が彼を待っている。偽りの祝辞。偽りの贈り物。偽りの愛。もしかしたら、それこそが、本来の自分にふさわしいものなのかもしれない。
 
 でも。
 僕は、望みをかけよう。君に。
 今はダメでも、いつか……いつか、君が。
 
 どんな望みも、伝えなければわからない、ということはもちろん承知している。彼女はきっと彼を祝福しないだろう。目ざめれば、いつものように優しく微笑み、何も聞かず、彼を送り出すのだろう。それでいい。ジョーはそう思った。
 
 五月一六日、僕の誕生日。誰もがそう言い、僕を祝福するだろう。偽りの僕を。
 でも、君は真実を知っている。君は僕を祝福しない。僕がそれを望まないと…本当に望まないと、知っているから。
 そうだよ、フランソワーズ、僕はそれを望まない。絶対に。
 
 ……あと、五分。
 
 欲しいものは永遠に手に入らない。そう嘯く僕は、ただ逃げ回っているだけだ。欲しいものはここにある。何より欲しいものが今、この腕の中に。それでも、僕は、君を手放す。何より大切な、自分自身より大切な愛しい君を。焦がれながら…恐れながら。
 フランソワーズ、でも、君はいつかわかってくれる。君だから、君だけはわかってくれる。僕の真実を。そして、僕をすくい上げてくれるだろう。あのときそうしてくれたように。覚えているかい?あの悪魔の島……僕たちが初めて出会ったあの日を。
 僕を地獄の淵から引き上げてくれたように、君はいつか僕の願いを…ただ一つの願いをかなえてくれる。君だから…君にしかできないやりかたで。僕は、そう信じている。
 
 僕は、生まれたい。もう一度生まれたい。
 君に祝福され、君の愛を受けて、僕は生まれる。
 君を愛するために。いつか、きっと。
 
 ……あと、三分。
 
 そして、フランソワーズ。それが君にとって、どれだけ困難かということも、僕は知っている。きっと君を苦しめるだろうということも。僕は理不尽だ。理不尽で、残酷だ。
 たぶん、僕は、また君の心に棘を送り込んだ。あのプロフィールの真実はそこにしかない。それでも……僕は。
 
 ……あと、一分。
 
 もし、このまま君に思いが届かなくても…このままで僕の命が終わっても、僕は悔やまない。でも、君は…君はどうするだろう。
 ごめん、フランソワーズ。僕はいつも君を悲しませるだけだ。
 それなのに、僕は思う。生まれてきてよかった…君と会えてよかった…と、心から。
 そう、何を悔やむ必要があるだろう。どんなに君を不幸にしても、全ての願いがかなわなくても。
 君をあきらめない。絶対に、あきらめない。
 
 
 居間の時計が微かに歯車をきしませ、時を告げようと身構える。
 腕の中で、フランソワーズが小さく身じろぐ気配がした。
 ジョーはゆっくり深呼吸した。初めての泣き声を上げるため、あらん限りの力で世界の空気を吸い込もうとする赤子のように。



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